『心を合わせて』         使徒行伝1:12-26

 主イエスは、オリブ山から昇天されました。その直前に、弟子たちに対して、「エルサレムから離れないで父の約束を待っているが良い」(4)と命じられました。そこで弟子たちはエルサレムに戻り、父の約束である聖霊を求めて、「屋上の間」(13)に行き、「120名ばかりの人々」(15)が集まりました。今日は「心を合わせて」)(14)というタイトルで、弟子たちが父の約束を受けるために、「心を合わせて」、何をしたかについて見てみましょう。

T.心を合わせて祈った
 主イエスは、「父の約束を待っているがよい」(4)と命じましたが、「祈って」待っているがよいとは言いませんでした。もし私たちであったならば、何をして待つでしょうか。彼らは自主的に、「心を合わせて、ひたすら祈りをして」(14)待ったのです。主イエスの十字架後の弟子たちは、罪責感や虚無感からか、勝手気儘な行動に出ました。一人別行動するトマス、エマオに帰る弟子、漁師に戻る弟子さえいました。しかし主イエスの昇天後は、エルサレムの2階座敷に集まって、誰言うともなく心を合わせてひたすら祈ったのです。その祈りの最中に、聖霊降臨がありました。神の御業は人が心を合わせ、一致して祈るところに起こるもので、この真理は今も変わりありません。逆に言うならば、先の弟子たちのように自分勝手な行動をとり、バラバラなところには御業は起こりません。私たちは、年齢も性別も、価値観も人生観も、思考回路も表現方法も異なりますが、「心を合わせて」一致して祈り、神の御業を拝したいものです。

U.心を合わせて待望する
 弟子たちは、ただ呆然と聖霊を待っていたのではありません。結果的には10日間の祈りでしたが、10日と言う期限はありませんでした。1つの祈りが長くなると、詩篇の記者ではありませんが、「主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか」と言いたくなるものです。
 ところで、4節には「父の約束を待っているがよい」とあるので、これは父の約束を心を合わせて待望するということでしょう。祈り始めには勢いがあっても、長くなると冷めてくるのも事実です。地道に1つのことを祈り続けるのは、忍耐を要します。そこで必要なのは待ち望むことです。某師は示唆に富むことを言っています。「願望」は自分の願い通りにならないと、イライラして精神疲労を招くが、「待望」は今、答えや将来が見えなくても、神の時を信じることを土台にしているので、待つことを可能にすると言います。私たちも、神の時を土台に、あらゆる神の御業を希望を持ちつつ待望したいと思うのです。

 弟子たちは父の約束である聖霊を受けるために、心を合わせて祈り、心を合わせて待望したように、私たちも神の御業の前に、「心を合わせて」祈りと待望をもって臨みたく思います。   

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